ズンズンズンっといくんじゃ!

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こんにちは、副住職です。

 

 

さていきなりですが、以下の言葉の数々、一体何のことだと思いますか?

 

「静中の工夫にまっしぐら、ズ―――――っと沈殿してくんじゃ」

「五体ごとドボーンと持ってって、そん中で全部溶けて無くなって、皆、いっぺん空じてしまわんといかん訳だなぁ」

「痛い時は痛いで結構、痛い―――――っ、でやるんじゃ。それで気失ってみい。いっぺんに徹底できるんじゃ」

「なにくそ―――――っと、どこまでもどこまでも突き抜けるんじゃ」

「心とゆうものは目では見えん。見えんとゆうことは時間空間を超えて宇宙一杯じゃ。そこまで行ってみいそこまで。そこまで行かなアカン」

 

 

おそらく、「ハァ?」「何が何だかさっぱり…」といったところではないでしょうか。

 

臨済宗の僧堂(修行道場)では、時折、修行僧の指導にあたる老師の講義(これを提唱といいます)を直接聞く大変貴重な機会があります。私は修行期間中、二人の老師のお話を聞くことができました。これらは日常の修行疲れからくる激しい睡魔と格闘しながら耳にし、不思議と今も私の心の奥深くに刻み込まれている提唱中の言葉のいくつかです。

 

あえてざっくりと解説するならば、坐禅をしていても、草引きや畑仕事などの労働をしていても、街に托鉢に出て歩き回っている時も、余計な事を考えず目の前のことと一つになるつもりで、一心不乱に修行に 打ち込みなさいよ、という意味です。とても感覚的、動物的というか、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の「そこで腰をグッ!と構えてバッ!といってガ―ン!と打つ」の世界に近いものがあります。

 

禅には

「不立文字(ふりゅうもんじ)」

  →悟りは言葉や文字では決して説明できない、直接体験せよ。

「教外別伝(きょうげべつでん)」

  →弟子は経典の言葉から離れ、師の日常を観察しながら自己研鑽に努め、心で体得して悟りを自分のものとせよ。

 

という、基本中の基本となる大切な概念があります。本来禅は決して体系化された理論や教義、学問にあらず、ということです。それでもあえてその境涯を伝えんとするこれらの老師の言葉は、いわゆる修行における極限状態まで行って初めて心の底から実感、いや、体感できるものなのかもしれません。

 

例えば、何日も何時間もひたすら坐禅をし、脂汗で歯を食いしばって脚の痛みに耐え、「頼むから誰かこの脚をちょん切って今すぐ放り捨ててくれ!」と発狂し叫び出す寸前までいくような経験をしてこそ、見えてくる世界。

 

または、真冬の寒さで両足の裏がパックリとひび割れているにもかかわらず、素足に草鞋をはいただけで積もる雪を踏みしめ托鉢に駆けずり回り、思わず声が出てしまうほどの激痛を涙目でグッとこらえるような経験をしてこそ、見えてくる世界。

 

私は、合わせて約4年半という短い修行しか経験しておらず、それこそ広大深遠なる禅の世界の入り口をノックした程度の拙僧にほかなりません。しかし、そんな私でもそうした極限に近い世界を多少なりとも味わったからこそ、先に述べられた老師の言葉の数々が今でも身に染みているのでしょう。

 

でもしまいには、

「ズンズンズンズンズンズンっといくんじゃ!」

なんて言葉もあって、もはや何の事だか(笑)。

 

ところで、長嶋さんの動物的勘とは対照的に、その精密な打撃理論で一時代を築いた故・川上哲治さんのある逸話が残っています。川上さんは現役生活の晩年になり、長年頂点で活躍し続けてきたからこその底知れぬ不安や欲が先に立ち、気が休まらず夜も眠れないほどの脅迫観念に悩み、岐阜県正眼寺の梶浦逸外老師に参禅するようになります。

 

老師はやって来た川上さんを、「おまえさんは自分というものに凝り固まった氷にすぎん」と一喝。「絶対的安心」の境地を探していた川上さんは「心が震えた」と言い、以来、時間を見つけては正眼寺に通い続け、修行僧とともに坐禅に打ち込んだそうです。

 

そして通い始めて5年目のある日、夜通し坐禅をしていると、「満点の星空の下、突然頭のてっぺんから尻の穴まで一本に貫かれて、星空と地面と自分が一つになっているような不思議な感じにとらえられ、涙が止まらなくなった」体験をします。そして朝一番に老師の所へ飛んで行くと、にっこり笑って「よう頑張った」と認めてもらえた、ということです。

 

理論派で知られる川上さんが、言葉では説明できない禅の感覚的世界に見い出され、その後も禅を心の羅針盤とし、監督としても多くの栄冠をつかんだという話、大変興味深いものです。

 

合掌