彼岸過ぎて

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こんにちは、副住職です。

 

忙しかったお彼岸が終わり、お寺も少し落ち着きを取り戻しています。

皆さまの中にも、このお彼岸中に久しぶりにお墓参りに行かれたという方も少なくないことと思います。東光禅寺にも多くの方がお参りされ、皆さま思い思いに墓前に花をたむけ手を合わされていました。

23日のお中日には、恒例の「秋のお彼岸ご先祖まつり」が開催され、読経、御詠歌のお勤めに続いて、国際協力チャリティ寄席でおおいに笑っていただき、御先祖様をしのんでいただきました。

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人は亡くなると何も残らない、だから墓など必要ない、という声もあります。

しかし、お墓とは故人、残された人々、どちらか一方のためだけにあるものではありません。

お墓に向かい、ご先祖や亡き父母の在りし日の姿を思いながら話しかける行為は、果たして本当に無意味なのか。

 

命は、生命体が地球上に誕生した時から脈々と一度も途切れることなくつながっています。

御先祖による奇跡的な生命のリレーを経て、今、私たちは自分たちの順番を生きています。

どこかで誰かが欠けていたり、組み合わせが違っていただけで、今の自分はありません。

 

行き交うモノや情報の量、スピードが昔とは桁違いに増えた結果、現代の時間の流れはとにかく目まぐるしいものになってしまいました。ついつい心をどこかに置き去りにしがちで、下手をすれば四季の移ろいすら忘れてしまうこともあります。

 

だからこそ、こうした機会にご先祖様に手を合わせ、感謝し敬うことによって、生かされているこの「命」を改めて自覚すること、背筋を伸ばし、自己の人生に対する責務を果たしていくと心に誓うこと、そしてそうした静かな時間を持つということ、

先人たちが大事に護り伝えてきたこうした尊い祈りの行為こそ、今の私たちに決定的に求められていることなのかもしれません。

 

合掌