一つになれ ~キャロルが教えてくれたこと~

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こんにちは、副住職です。

 

 「一つになれ!」。修行中、雲水を指導してくださる老師がよくおっしゃっていたことです。畑を耕すときは鍬と一つに。読経のときはお経と一つに。野菜を切る時は包丁と一つに。禅の根本は「不立文字」「教外別伝」といいます。つまり、言葉や文字だけでは言い表せない、心と体全体で目の前のことに飛び込んで、一心不乱、無心に打ち込んで一つになるからこそ見えてくる世界、頭で考えていては決して理解できない世界です。

 

 私には、忘れることのできない一つの経験があります。大学卒業後、イギリスに渡り、知的障害を抱える人々が働いて自立しながら共同生活を送る、キリスト教系のコミュニティーで国際ボランティアをしていました。牧場、農園、ベーカリー、おもちゃ工場など、コミュニティー内に住民の自立支援のための様々な施設がある中、私が配属されたのは、高齢などの理由で作業から引退した住民が余生を静かに送るためのホスピスでした。そしてそこで私に割り当てられた仕事は、キャロルという初老のダウン症の女性の介護でした。ほぼ寝たきり、目を開けていても会話はできず、食事・入浴・排泄など全てにおいて介助が必要で、深刻な呼吸器系の問題もあって、担当看護師には当初から「いつ力尽きてもおかしくないわよ」と言われていました。

 

 仕事はとても過酷でした。日に何回にも及ぶオムツ交換、食事介助の時には咳き込むたび口に入れた流動食が派手に飛び散るのを顔中に浴び、入浴中に大便をお漏らししてしまうこともありました。また、咳が止まらず夜中に起こされてしまうことも少なくありませんでした。数か月が経ち、積み重なる疲労と「何のためにこんなことを?」という思いから、私の仕事は徐々に義務的なものになり始め、時には本人に乱暴な言葉をぶつけてしまうこともありました。

 

 そんな時、キャロルのお姉さんが訪れ言われました。「毎日本当にありがとう。彼女はあなたといるのを喜んでいるわ。私には分かります」。苦労が認められ嬉しかったと同時に、キャロルに対する現実の自分の行いや姿勢を強く恥じた私は、初めて「とことん彼女と向き合ってみよう」という気になりました。どうしたら彼女が快適に過ごせるか、という点だけに集中し様々な工夫をしました。咳き込む時には流動食の軟度を調整し、床ずれせぬよう体位変換をこまめに行い、例え返事がなくても常に言葉をかけるよう努めました。

 

 しばらくすると、徐々に不思議な感覚が生まれてきました。常に何事もキャロルの身になって考えることで、自分を忘れ、自分がキャロルに、キャロルが自分に、キャロルの手足が自分の手足となっていくような得も言われぬ感覚でした。彼女がつらい、痛いと自分が苦しい、何とかしたい…。気付けば、介護がほとんど苦ではなくなっていました。

 

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 1年の任期を終えホスピスを去る3日前、キャロルは眠るように静かに、おだやかに亡くなりました。私は最後に体を浄め、きれいな服を着せ、棺を埋める穴を職人さんと一緒に掘り、葬儀ではレクイエムを演奏し、家族が見守る中埋葬をしました。私の心は、悲しいというより、すべてやり切った、思い残すことはないというすがすがしい充足感で満たされていました。そして、去っていく私に心配をかけまいとした、彼女の思いやりすら感じられました。あの時、私はキャロルと、介護という仕事と、完全に「一つ」になっていた、と今でも感じます。頭ではなく、経験で、心と体で教えられた、まぎれもない一つの「禅」であった、と確信しています。

 

 すべてを終え私が旅立ったのはまさに葬儀を終えた次の日。北ヨークシャーのど真ん中にあるそのコミュニティーを見下ろす丘に最後に立ったとき、一陣の風がサッと吹き渡りました。その風の心地よさとあの時の美しい風景は、きっと一生忘れることはないでしょう。