花の本分

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こんにちは、副住職です。

 

暖冬の影響により、今年は早くに開花した東光禅寺本堂前の白梅。樹齢・約190年、高さ9メートルと梅の木としてはかなり長身であり、横浜市が選ぶ「名木古木」にも指定されています。

 

でも実はこの梅、5年程前の大型台風の影響で、一度根元からボッキリと折れてしまったことがあります。

「さすがに復活は難しいだろう」

半分は撤去を覚悟しながらも、僅かな望みにかけて造園屋さんに修復を頼み、幹にはしっかりと補強を施しました。

 

あれから5年。痩身の托鉢僧を思わせるこの白梅は、今もしっかりと生きています。折れる以前とは比べるまでもなく、限られた数ではありますが、年に一度は花を咲かせ、変わらず境内を訪れる人々に春の到来を伝え続けてくれています。

 

もちろん、状態は今も決して楽観視できるものではありません。

「生育状態が劣悪で回復の見込みが少ない」

「幹の大部分が腐朽」

「上枝・下枝とも先端の枯損が著しく、大きな切断がある」

樹木医さんの診断には、悲観的な診断結果が並びます。完全に朽ち果てる日もおそらくそう遠くはないでしょう。それでも、冬の寒風に耐えながらじっと力を蓄え、早春の息吹とともに力の限り目いっぱい咲き乱れんとするその姿、生命力に心を打たれます。

 

「百花春至為誰開」(ひゃっか はるいたって たがためにひらく)

春、一斉に美しく咲き誇る花々は、一体誰のために咲いているのか、という意味の禅語があります。

 

「あぁきれいだ。人をこんなに楽しませてくれてなんともありがたい」などと私たちは思うかもしれませんが、それはこちら側の勝手な都合であり、花は決して、人間を喜ばせたい、美しくみせたいがために咲くわけではない。

 

季節や気温の移ろいを繊細に感じ取り、この大いなる自然の摂理、法則、命の循環の中、誰に頼まれるでもなく、ただただ花としての自らの「本分」を、全身全力でありのままに全うしている、という事実に過ぎません。

 

翻って私たち人間はどうか。「成功したい」「良く思われたい」「若いままでいたい」…などと身勝手な思惑や要望に囚われ、一喜一憂を繰り返してはいないでしょうか。

 

花を花たらしめている大自然の法則は、私たち一人ひとりにも平等に行き渡っているというまぎれもない事実。いただいた命、環境、そしてご縁に感謝し、人としての本分を全うする。不平不満、愚痴泣き言を漏らしても、不安や迷いは深まるばかり。この白梅のごとく、謙虚に、無心に、心豊かな人生を送りたいものです。

 

「花はなぜうつくしいか。ひとすじの気持ちで咲いているからだ」 八木重吉(詩人)

 

さぁ、私たちの心も、命も、今こそひとすじに――。

 

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