稲川誠さんとの「一挨一拶」

01760a73e25c986fdff075f4368ea3cc4c7beb133b

 

変わらない笑顔、優しい語り口。

小学生の頃のあの日の感激が、じわじわとよみがえってきた。

 

以前からお会いしたかった方が、ふとしたご縁で東光禅寺に足を運んでくださった。

 

稲川誠さん。

 

オールスター3度出場の元大洋ホエールズ投手。

コーチ、スカウトを経て最後にベイスターズ選手寮の寮長を2013年まで7年間務め、大洋、横浜大洋、横浜、横浜DeNAと、50年間チーム一筋に様々な立場で球団を支えてこられた方だ。

 

——

 

私がプロ野球の試合を観に、弟と地元・横浜スタジアムにちょくちょく通うようになったのは、小学4年生のときだった。横浜大洋ホエールズはその頃から万年Bクラスで、地元なのにクラスにホエールズファンは自分ひとり。それでも、毎日試合の結果に一喜一憂し、選手・スタッフの一覧が載った下敷きを毎年欠かさず購入しては、全員の顔と名前・背番号を覚えてしまうほど、なぜだかすっかりはまっていた。

 

現地での楽しみの一つが、試合前、外野スタンドのすぐ側で主にピッチャーの選手たちが行うストレッチやウォーミングアップの時間。濃紺に白字の「W」のキャップをかぶって最前列に陣取り、テレビなどでいつも目にする憧れの選手たちを間近で見るのが好きだった。それでも、内気な小学生だった自分に彼らはまぶしすぎ、遠慮なく黄色い声援を上げる一部の女性ファンたちを尻目に声を掛ける勇気など微塵もなく、ただその姿を眺めるだけでいた。

 

ある日の試合前、いつものようにスタンド最前列でストレッチに励む選手たちを眺めていると、少し離れた所に、よく下敷きや選手名鑑で目にする、見慣れた一人の優しい顔立ちの紳士の姿があった。まさに当時、一軍投手コーチという重責にあった稲川誠さんその人だった。

 

稲川さんのその穏やかな表情に、子どもながらとても親しみを覚えた私は、心臓が口から飛び出るかと思うほどドキドキしながらも、意を決し勇気を振り絞って叫んだ。

 

「稲川さーん!」

 

無視されることも半ば覚悟の上だった。しかし稲川さんは、すっと手を上げ、しっかりと私の目を見て満面の笑みで応えてくれた。

 

「オウッ!」

 

たった一言のシンプルな挨拶。しかし、その一言に10歳だった私の心は完全にわしづかみにされ、まさに天にも昇る気分だった。「プロの一軍投手コーチが挨拶をしてくれた…」。その日の試合結果は何一つ覚えてはいないが、あの短い挨拶を交わしたときの感激と胸の高鳴り、そして稲川さんが向けてくれた笑顔は、今も決して色褪せることなく鮮明に、私の記憶の一番大切な場所に刻み込まれている。またそれは、「よし、どんなに弱かろうが、自分は稲川さんがいてくれる限りずっとこのチームを応援し続ける」。そう決心した瞬間でもあった。

 

IMG_1351 - コピー

 

寮長時代、内川聖一(現ソフトバンク)、藤田一也(現楽天)そして現横浜DeNAの主力である筒香嘉智、梶谷隆幸など、高卒で入団し今では1軍で華々しく活躍する選手たちをまさに生活面から教育し、一人前に育ててきた稲川さん。

 

「人生の集大成」。最後に回ってきたその役をそう位置づけ、強い信念のもとに責務を務め上げ、孫の世代にもなる「若き星」たちに優しく、また時には厳しく向かい合ってきた。靴をそろえる、部屋を整理整頓するといった、人として大事な基本的な生活態度に関して妥協は許さなかった。時には、「プロ野球選手」の肩書に引き寄せられてやってくる、様々な甘い誘惑や詐欺、恐喝の類のトラブルから、自らが盾となり選手たちを守ってきた。

 

そんな中、稲川さんがとにかく口を酸っぱくして伝えてきたのが、「挨拶」の大切さだったという。

 

「よそ見をしながら挨拶をするな」
「姿勢を正し、しっかりと相手の目をみろ」
「心を込めて、自ら心を開くつもりで」

 

人と人の出会いは挨拶から始まる。声の掛け方、表情、心の持ちよう一つで、その日一日の気分のみならず人間関係や生き方までが変わってくる。

 

「挨」とは「積極的に迫る、突き進む」ということ。
「拶」は「切り込んでいく」ということ。

 

もともと禅では「一挨一拶」といい、一方が問答を投げ掛けて攻め込み、すかさず相手も切り返すことで互いの悟り、境地、力量の深浅をはかる丁々発止のやり取りの様子を示す。それが、互いに気を向け合い心を通じ合わせるという、今日の一般的な「挨拶」へと進化した。

 

あの日の稲川さんとの挨拶から30年近く。
「それは嬉しいねぇ」
当時の思い出話をさせて頂くと、柔らかな表情をさらにくしゃくしゃにして喜んでくださった。

 

たった一瞬の、しかし決して忘れることのできない「一挨一拶」。
そんな「挨拶」が身近に溢れるようになれば、それが心の潤滑油となって人間関係を豊かにし、きっと社会も、私たち一人ひとりの生き方も変わってくるのだと思う。

 

 

その日の夜、ご丁寧にご本人からお礼のお電話を頂いた。

「私に何かお手伝いできることがあれば、いつでもおっしゃって下さい」

「またお会いしましょう」

年齢を全く感じさせない、温かく力強い、心のこもった言葉に、またもや心をわしづかみにされてしまった。